茨城県つくばみらい市から来ました

プログラマーになるために生きています

ギラン・バレー症候群 闘病記録

去年の12月11日から入院していたので、通算でちょうど一年入院していたことになります。

去年の12月10日夜に腰から下肢全体へ強い痛みを感じ始め、日付が変わる頃にはとても我慢できる痛みではなくなってきていました。#7119に電話をして近所で夜間外来を受け付けている病院を聞いたところ東京共済病院を案内してもらいました。夜間外来で症状をひと通り説明したところ、痛み止めの点滴を打っていただきました。夜間では点滴以上の処置が出来ないとのことで、飲み薬の痛み止めを処方していただき一度帰宅しました。

自宅に帰ってからも痛みが収まらなかったので、処方された痛み止めをさっそく飲んだのですが痛みがおさまりませんでした。そこで朝の受付開始の時間を待ち再度東京共済病院へ再度向かいました。痛みが続いていることを医師に告げると血液検査やレントゲン、CTスキャンなどひと通りの検査受けました。このとき下半身の痛みが酷く、歩いての移動も困難だったため、人生で初めてストレッチャーに乗っての移動となりました。検査結果が出たのですがこの時点では痛みの原因がわからず、とりあえず入院しましょうとの提案を受け、そのまま入院となりました。
人生初の入院生活が始まったのですが、初日に血液検査の結果肝臓に関するデータが非常に良くないとの事から絶食を言い渡され、暗い気持ちになりました。もっとも、今思い返すと東京共済病院の食事が一番マズかったのですが。二日目以降からは得に何もなく、何もないだけに暇な時間を過ごしました。
入院してから四日ほど経った頃だったと思いますが、医師から血小板の値が入院当初から半減している旨の説明を受けました。血小板がなくなってしまっては、どこからか出血した場合に血液が凝固しないようになってしまいます。このまま症状が進んでしまうと命に関わる事もあると考えたので、この時点で主治医から両親へ連絡をとってもらい、翌日には両親が見舞いに来てくれたように覚えています。

血小板の減少も問題だったのですが、五日目から六日目を過ぎたころから徐々に四肢が言うことをきかなくなってきました。はじめに右腕に力が入らなくなり、次には下半身に力が入らなくなり、ついには嚥下が困難な状態なり、満足に食事を摂ることができなくなってしまいました。また、この頃排尿も困難になり、尿道カテーテルを入れました。
四肢の麻痺が進んできたことで、主治医からギランバレー症候群の疑いがあることを告げられ、免疫グロブリン大量療法が始まりました。免疫グロブリン大量療法を行うと、ギランバレー症候群の症状が重症化しないという研究結果があるそうです。人生初の腰椎穿刺を受けたのもこの頃だったと記憶しています。腰椎穿刺を受けるにあたってド、TVドラマなどの描写からとても痛いものだと思っていたので内心怯えていたのですが、いざ受けてみると痛みはほとんど無いまま終えてしまい、拍子抜けしてしまいました。
東京共済病院では十分な治療が出来ないとの事で、日本赤十字社医療センターへ転院しました。転院の際、人生初の救急車を経験しました。
日本赤十字医療センターに転院してすぐに、ギランバレー症候群の治療が始まりました。しかし、ギランバレー症候群には明確な治療法というものはなく、すべて対処療法的なものになります。まず、嚥下に問題があったことから、鼻から胃までマーゲンチューブという管を入れられました。この日からしばらくは普通の食事を摂ることが出来ず、液状の栄養剤を鼻から胃に直接流し込むことになります。次に、自発呼吸が弱くなってきていたので、マスク型の人工呼吸器を装着させられました。この呼吸器は装着時の顔への圧迫と呼吸への加圧から大変苦痛で、マスクの角度がズレるたびに何度も看護師さんの手をわずらわせる事になってしまいました。
転院の翌々日だったでしょうか。血中酸素の値が悪くなる一方で、より詳細な監視下に置かれるために集中治療室へ移動になりました。集中治療室も人生初の経験です。この頃には唯一動いていた左腕も動かなくなり、完全に四肢麻痺状態になってしまいました。この頃からしばらく、まともに動くのは首の筋肉だけになりました。上肢が麻痺してしまったことから、ナースコールのボタンを押すこともできなくなり、大きな声を上げて看護師さんを呼んでいたのですが、呼吸器のマスクのせいで声は通らず、なかなか気づいてもらう事ができません。精神的にもかなり限界がきていました。
このあたりから記憶がだんだん曖昧になってくるのですが、集中治療室に入ってから数日経った頃、舌に通っている神経もダメージを受けてしまったようで、舌根沈下、つまり舌が気道に落ちてしまい、一時完全に呼吸が止まってしまいました。自分が気づいた時には、集中治療室の医師が自分の後頭部を支えながら、救急処置の気道確保をされている状態でした。舌根沈下してしまったことから、この後挿管、つまり気道に直接管を通し、人工呼吸器に繋がれることになりました。マスク型の呼吸器の時は自発呼吸に合わせた補助的なものだったのですが、この呼吸器は完全に自分の呼吸を肩代わりしてくれていました。この時からコミュニケーション手段として発声しての会話が不可能になりました。
挿管してから数日たった頃、確か12月28日頃だったと記憶しているのですが、医師から気管切開の提案を受け、気管切開の手術を受けました。マスク型の呼吸器よりは楽だったとはいえ、そこそこ苦痛だった気管のチューブが外れることになります。口の中を専有していたチューブがなくなり、挿管されていた状態よりはいくぶん楽になりました。
このような状態だったので、集中治療室に入ったまま年を越すことになりました。
年を越してからは症状の悪化も止まり、落ち着いたものになりました。1月の末頃には人工呼吸器からの離脱も始まり、2月になるころには一般病棟へ移ることができました。一般病棟に移ってからは、人工呼吸器からの離脱訓練、車いすに座る訓練、理学療法士さんによるリハビリが始まりました。一ヶ月の寝たきり生活で筋肉がかなり衰えていたため、車いすに座るだけでも酸素飽和度が下がるなどして大変だったことが記憶に残っています。
この頃からコミュニケーション手段として、姉に作ってもらった五十音が書かれた透明な下敷きを使ったコミュニケーションを行っていました。首を動かして頷くことや首を横に振ることはできていたので、コミュニケーションをとる相手に五十音を一字ずつ読み上げてもらい、頷きで文字を確定、文章にしてもらうという手段でした。この五十音の板には濁点や半濁点、小さい「っ」などが無かったため、濁点などの補完はコミュニケーション相手次第だったので相手によっては大変時間や労力がかかってしまっていました。

一般病棟に移ってから三週間ほど経った頃からST(言語聴覚療法士)さんによる嚥下の訓練が始まりました。気管切開をしたことから口腔や気管への負担は減ったのですが、誤嚥などの不安があることから食事はおろか水分を摂ることもできない状態だったので、嚥下訓練の時に飲み込めるスプーン一杯ほどの冷水や、フルーツゼリーが大変美味しく感じました。
一般病棟に移ってから一ヶ月ほど経った頃、今度はリハビリ病院への転院を案内されます。日本赤十字医療センターのような急性期病院といわれる病院では、三ヶ月しか入院できず、この期間を過ぎるとリハビリ病院と分類される病院などに転院するのが普通のようです。ソーシャルワーカーの方や両親などに複数の病院をさがしていただいたのですが、両親が決めた茨城県立医療大学病院は4月中頃までベッドが空かないとの事だったので、一度国立リハビリテーションセンター病院に転院することになりました。
国立リハビリテーションセンター病院に3月12日に転院し、翌日からはリハビリが始まりました。この時点ではまだ歩くことはおろか立つこともできず、左腕がかろうじて少し上がる程度。手指も数本の指がなんとか動かせる程度でした。リハビリの内容はOT(occupational therapy、作業療法)では上肢の動作に関する訓練、PT(physical therapy、理学療法)では立ち上がりや歩行に関する訓練、ST(speech therapy、言語聴覚療法)では飲み込みや発声の訓練が始まりました。
国立リハビリテーションセンター病院に転院した頃には人工呼吸器からは離脱できていたのですが、気管にはカフ付きカニューレというものが入っていたため発声することが出来できませんでしたが、転院から一ヶ月ほど経った頃にスピーチカニューレという弁がついたものに変更して発生が出来るようになりました。約四ヶ月ほど喋れていなかったので、会話によるコミュニケーションがとても便利だと痛感しました。
4月中頃に携帯電話が復活し、Twitterなどでつぶやきはじめていたようです。まだ手指の動きが完全ではなかったため、音声認識による文字入力を補助的に使いながらiPhoneを操作していました。このあたりからiPhoneに保存されていた音楽や動画が楽しめるようになったので、入院生活にも潤いが出てきます。

5月の末になり、茨城県立医療大学附属病院のベッドに空きが出たとの連絡があったので、5月28日に転院しました。国立リハビリテーションセンター病院は実家からだと電車の乗り継ぎなどで片道3時間ほどかかっていたようですが、茨城県立医療大学附属病院であれば車で片道1時間程度で通えるため、見舞いに来てもらっていた両親の負担がかなり減ったようでした。
茨城県立医療大学附属病院に転院してからも引き続きOT、PT、STの各訓練を受けていました。6月にはスピーチカニューレも外し、気管切開を塞ぎました。このころまで足腰の動作や左腕の動作は遅いながらも順調に回復しつつあったのですが、7月を過ぎても右腕(右肘)が依然麻痺していたままで、精神的にかなり参っていました。8月に入った頃には右手も動くようになり、ほっと胸をなでおろしました。また、8月にはこれまでお世話になっていた尿道カテーテルを外すことも出来ました。
9月以降は粛々とリハビリをこなしていました。11月に入ってからは外出訓練や外泊訓練も始まり、現在に至ります。

現時点で思い返せる内容をざっと書いてみました。さすがに一年間も入院しているといろいろな事があったな、と思います。人生で一年間も入院することなどこれからの人生でもそうそうないことだと思いたいです。家族の支えなしにこの一年を過ごすことは不可能でした。精神的にもそうですが、経済的な面で特に感じました。医療保険などに入っていなかったため、自分ひとりの財力では完全に詰んでいました。
これからは少しは体のことにも気をつけて生きていかないといけないなと思った一年でした。おわり。